形見
孝夫の父は言葉の少ない、昔かたぎの男だった。仕立てた背広をパリッと着こなし、靴は三種のクリームを使い分けて手入れしていた。この日、孝夫は付き合っている彼女を紹介しに実家に戻ってきた。当然、将来の結婚を見据えての挨拶だった。
「理恵さん、孝夫をよろしくお願いします」
この言葉を残し、父は書斎に戻った。しばらくすると孝夫は父のいる書斎に呼び出された。
「父さん、どうしたんですか」
「孝夫、結婚してもシャツは自分でアイロンがけをするんだぞ」
「もちろん。アイロンがけしながら次の仕事の事を考えるんですよね」
「そうだ。それから、お前にはまだ早いと思っていたが、これな」
父の手には長年愛していた腕時計があった。
「俺が使っていた時計だ。30年は経つが、今となっては古くさくても愛着があって飽きることがないんだ。これは女房と同じかもな」
父と孝夫はふふっと笑った。
「しかしもう使う事もなくなってきた。良かったら使ってくれないか」
「でもこれは父さんが大事にしてたもので--」
「いやいいんだ。こいつも表に出たいだろう。それに--」
父は続けた。
「それに俺の体もあまり良くないんだ。形見だと思って使ってやってくれ」
「父さん」
孝夫は父から腕時計を受け取った。自動巻特有の重さが腕に伝わってくる。文字盤を見て孝夫は気付いた。腕時計は明らかにパチもんだった。